完璧なるものとその先

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Feb 04, 2019

所属している会主催の、迎田秋悦についての講演を聴いてきました。
迎田秋悦は明治から昭和を生きた京都の近代工芸を代表する漆芸家です。浅井忠や神坂雪佳らの薫陶を受け、変化する時代の中で新しい工芸の道を希求し続けました。
真摯に漆芸に捧げた秋悦の人生と、数々の超絶技巧の作品には感服するほかありません。

以下は、講演を聴きながらつらつら考えていたことです。

塗り文化は中国・チベット・韓国・台湾・ヴェトナム・カンボジア・タイ・ミャンマーなどの東南アジア、
ロシア・ビザンチンと古代から世界に数多あれども、日本ほど塗面を恐ろしいほど平滑に徹底的に作り上げた国はないと思うのです。
日本で育つ漆の木の樹液の性質が硬質だったこと、硬いが故に磨けば光る、という漆の性質から導かれたということもあると思います。
でも、きっとそこには歴史の中を生きた几帳面で勤勉な日本の職人達、ひいては国民性が凝縮されていると思うのです。
そして潤いにみちた風土の中で培われた美意識。
漆=Japanであったことに、とても納得がゆくのです。

ただ、完璧にすればするほど、そこに退屈さをはらむ危険がある。
完璧さや調和をいかに破るかに作品の魅力はかかっている。
本阿弥光悦や尾形光琳の作品を見ると、しみじみそう思います。

尾形光琳の八つ橋蒔絵硯箱に金蒔絵で描かれた菖蒲の葉をよく見ると、筆の筋が残っているのが見えます。職人仕事では筆跡をべたっと塗りつぶすはずなので、光琳自身が蒔絵をしたのではないかという説もあります。
葉の勢い、ものすごくちょっとした細部の洗練、センス、絵師としての光琳の才能が発揮され、神経が行き届いています。

完璧を破って向こう側に至れるか、完璧を超えられるか。
そんなことが頭の中をぐるぐる回っていたのでした。